みんな夢の中

自作の彫塑紹介。

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ドクター

doctor.jpg

               原爆で殺された父のイメージである
                父は爆心地で小児科を開業していた
               まだ48歳の若さであった。
                死の瞬間まで医師としての職務を守り通した
                父のイメージであり、私の努力目標でもある。
                      中村玄制作 19996
                   (h29.0×w17.0×d21.5cm)


 広島に戻り、広島市大手町6丁目17番地に小児科を開業しました。
 病院は大手町通りに面し、南側に金比羅神社があり、数十メートル離れて病室が川沿いにあって、時には患者さんが船を使って直接病室に入院することもあったといいます。
 当時大手町通りは広島城に向かうメインストリートであり、毎日夕刻には兵隊さんが隊列を組んで行進し、車馬が往来し、喧騒を極めました。夏の金比羅さんのお祭りの賑やかだったこと! 私は夜遅くまで二階の窓から屋台やガス燈の明かりや浴衣を着た参拝客の列を飽かず眺めていたのを覚えています。

 しかしこの場所は原爆の炸裂した地点からほんの600~700メートルしか離れていませんでした。そして、昭和25年8月6日、アメリカの爆撃機エノラゲイによって投下された原爆によって父はその朝受診に訪れていた沢山の患者さんと一緒に崩壊した病院の下敷きになり、そのまま生きながらにして焼き殺されたのです。

 その日の朝は疎開先の府中の家でも広島の方向に不気味な巨大なキノコ雲が湧き上がるのが見られ、ついで広島市が空襲されたとの知らせが伝わりました。そして広島市全体から火の手があがり、すぐさま兄と姉は広島に父を探しに出掛けましたが、広島市全体から激しく燃え上がる炎のため市内に近づくことさえもできませんでした …。

 翌日になってやっと火の手は収まってきたので母と兄、姉は市内に入ることが出来ましたが、広島は完全に壊滅し瓦礫の山と化していました。
 まだあちらこちらから煙が立ち昇り、沢山の死体が転がり、異臭が立ちこめているなかを辛うじて病院の跡にたどり着きましたが、父の病院はみるも無惨に崩れ焼け落ちて巨大な残骸と化し、その中に生き埋めになったまま焼け死んだ沢山の死体が累々と転がり、表の防火水槽には看護婦が水の中に頭から突っ込んだまま息絶えておりました。
 父と診察に訪れた患者さんの大部分は崩れた病院の下敷きとなり、ただ一人病院から外に出ることができた看護婦は必死で生き埋めになった患者さん達を救出しようとしましたが、すぐに辺り一面から火が燃え上がり、遂に自分も炎に包まれ力尽き、病院の前の防火水槽に頭から突っ込んだまま息絶えたものと考えます。
 看護婦はすぐに逃げ出せば脱出できるくらいの時間はあったはずでした。実際に病院の近所で被爆しながら逃げおおせた人も私は知っています。崩壊した病院に生き埋めとなった沢山の患者さんの悲鳴や怒号、そして看護婦がただ独りで燃えさかる火のなかを一人でも患者さんを助け出そうとして死に物狂いに走り回っている光景を想像するだけで私は涙を禁じ得ません … 。

 父がその朝乗って出た自転車はまだ見つかっていませんでした。
 父がまだ爆心地に入らないうちに原爆が落ちたのなら生存の可能性はある … 家族は必死で市内を探し回りましたが、その日も、次の日も、三日目も四日目も父を見つけることは出来ませんでした。
 一週間探し回っても見つからないので病院の焼け跡をもう一度掘起してみたら焼け跡の一番底から父が乗って出た自転車が焼けただれた姿で発見されました。やはり父はここで多数の患者さんと一緒に被爆していたのでした。かくして父の死は確定的となりました … 。

 病院の焼け跡には沢山の骨が散乱していました。大きな骨が母親、小さい骨は子供の骨と思われましたが、あまりにもその数が多く、さらにそのうちのどれが父の骨か判るはずもありませんでした … ふと母は診察室の跡の壊れた椅子の陰に頭蓋骨があるのを見付けました。しかもそれは男の頭蓋骨でした … まさしく父に間違いない … 母はその頭蓋骨を涙ながらにかき抱きました … まさに地獄を彷彿とさせる身の毛もよだつような凄まじい有様でした。

 診察室の跡にあった父の頭蓋骨 … これは父が最後まで医師としての義務と誇りを忘れなかったことを意味すると思います。
 志なかばで死んだ父の遺志を継ぐのは息子としての当然の務めと考え、私は医師の道を選びました。「ドクター」は父が最後まで守った誇りであり、それを引き継いだ私の誇りでもあります。

 敢えてこの作品を「ドクター」としたのは、死の瞬間まで医師としての職務を守り続けた父のイメージであり、私の努力目標でもあるからです。

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